60代で筋萎縮性側索硬化症(ALS)が発症した祖母。この難病が難病でなくなる日がきますように…

人と話す事、歌うこと、食べる事、体を動かすことが大好きだった祖母が2015年12月に72歳で亡くなりました。

 

原因は、10万人に1人が発症すると言われている難病「筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)」を患っていた為です。

※「筋萎縮性側索硬化症」は「ALS」とも呼ばれます。

 

 

この難病によって、祖母は体の自由を奪われて、大好きだった「人と話す事」「歌うこと」「食べる事」「体を動かすこと」、全てのことができなくなったまま、最後をむかえました。

 

祖母はいつも、自分の事よりも周りの人の事を考え行動し、怒った様子など見たことがないほど優しくて、いつも笑顔でいてくれた人。

 

そんな人だからこそ、いつも幸せであって欲しい、長生きして欲しい、そう願っていたのに。

 

 

祖母が「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」だとわかった時、私は祖母に「私が治してあげるからね」と約束し、いろいろな本を読んで健康法を試したり、漢方を買ってみたり、微力ながらできる限りの事をしました。

 

私は小さい時に父を亡くし、母が朝から晩まで仕事をしていた為、小学生の頃は学校が終わったら離れて住む祖母の家に帰り、ご飯も祖母の家で食べていたので、

祖母の家を自分の家と思い、祖母を「お母さん」と呼び…。

 

そんな存在だったからこそ、恩返しも兼ねて難病を患っている祖母をなんとかしてあげたいと強く思っていました。

 

でも、ALSの症状が徐々に進んでいくにつれて、私は祖母を見ている事が辛くなり、祖母に会いに行っても別の部屋で泣き明かして祖母に会わずに帰ったり、祖母からもこのALSという病気からも逃げるようになりました。

 

「私が治してあげるからね」

 

そう約束したのに。

この、治療法が未だに見つからないALSという病気を患いながらも、前向きに生きようとしている方の様子をテレビで拝見し、私もこの難病を身近で体験してきた者として、祖母がALSとわかるまでの事や、わかってから亡くなるまでの事をお伝えしようと思いました。

 

励ましの内容ではない事が大変、申し訳ないのですが、どなたかのお役に立てたら嬉しいです。

 

「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」とわかるまで約2年かかりました

祖母の体に異変が起き始めたのは、祖母が66歳の時。

 

「食べ物が飲み込みにくい」「つばが飲み込めない」「声が出しにくい」「言葉を上手く発せない」

 

そんな症状から始まりました。

 

それでもまだ、よく噛んで食べれば飲み込めたし、声も聞き取りにくいわけではなかったので、周りは「老化現象の一種であろう」と、軽く考えていました。

 

この時は、周りから老化現象の一種だと言われる祖母が可哀想で、喉に良いと言われるツボを押してあげたり、舌を出す顔の体操や発声を祖母と一緒にしてみたり。

 

しかし祖母が異変を訴えてから数ヶ月後、声を出す事がひどそうで、声も小さくなり、言葉もちょっと聞き取りにくくなってきました。

(ご飯の事を「おはん」と発したり、きゅうりを「ううい」と発したり)

 

祖母と同居をしていた叔父家族は、何度も祖母の言葉を聞き返していて、その繰り返しが時々、イラっとしたようで聞き流していた事もあったそうで、次第に祖母も「話しても伝わらない」と思い、口数が少なくなりました。

 

祖母と一緒に住んでいる叔父家族を差し置いて、私が行動するのもおこがましいとは思ったのですが、元気な祖母を見てきたからこそ、この状態はただ事ではないと察し、私が病院に連れて行く事にしたのですが…

 

喉だから耳鼻咽喉科だろうと判断して連れて行ったものの異常なし。

 

内科はどうだろう?と思い連れて行ったものの異常なし。

 

異常なしって何⁈異常あるじゃん‼︎と思い、他の耳鼻咽喉科と内科もあたりましたが見解は同じ。

 

祖母は「ありがとう。もう少し様子を見てみるから。」と言い、ここからさらに数ヶ月が過ぎた頃、母から

「おばあちゃん最近、転ぶようになったみたいでさ…」という話をされ、不安になり、祖母のもとへ行きました。

 

祖母は普段通り、笑顔で出迎えてくれて、立ち姿も歩き姿も異常がないように見えたのですが、話をきくと「歩いてる時に右足の力がふと抜けてしまう」と言いました。

 

そして常に右足がつっぱるような違和感があると。

 

迷惑がかかると思ってなのか、病院には行きたがらなかったので、足のマッサージをしてあげたり、あったかい靴下を履かせたり、膝サポーターをしてあげたりしたのですが、転ぶ頻度が次第に増えて、祖母は車を運転する事も外出する事もしなくなりました。

 

この頃、右足の違和感と共にもうほとんど言葉が聞き取れなくなり、祖母は頷くだけだったり、筆談をするようになり。

 

さすがに異常がないわけがないと思い、祖母には切り出しにくかったのですが、脳神経外科に連れて行く事にしました。

 

脳神経外科ではMRI検査などが行われたのですが、やはり異常は見当たらず、担当の医師から言われた言葉は

 

「おばあちゃん最近、ショックな事とかなかった?例えば飼い猫が亡くなったとか。」

 

話せない祖母に代わって私が「飼い猫はいません。ショックな事も思い当たる事がありません。」と答えると、さらに医師は

 

「そうなるとね、おばあちゃんの意思で話せないんだと思うよ?話さないと言った方が正しいかな?」

 

 

祖母はこの言葉を聞いても、いつもどおりの優しい顔をしていましたが、私はこの言葉に悲しくなり、ショックを受けました。

 

 

そんな時、お世話になった内科の先生から

「異常がなかったとはいえ、やはり気になる症状なので、一度大きな病院で診てもらった方がいいかもしれないね。

紹介状を書きますから、もう一度来て頂けますか?」

と連絡を頂きました。

 

紹介状をもらってからすぐ、仙台にある大きな病院に検査入院をする事になり、担当の若い先生にお会いしたのですが

 

「絶対に病名を突き止めて、治していきましょうね!頑張りましょう!」

 

と頼もしい言葉をかけてくださり、光が見えたような気がして嬉しくなりました。

 

 

ところが、1週間入院して脊髄検査などあらゆる検査をしたけれど、異常が見当たらず、正しい病名もわからないという結果。

 

ただ、脳や血液などに異常が見られずに、徐々に体に異変が起きているという点から考えると、恐らく「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」だろうと。

 

この病気の場合、完治するという事がなく、進行を遅らせる薬を処方する事しかできないので、どこの病院に行っても同じ。あとは近くの病院と、今後の事についてご相談くださいと。

 

差し伸べられた手を、パッと振り払われたような、突き放された感じがしました。

結局、紹介状を書いてくださった病院でお世話になる事になり、「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」の事についても、その病院で詳しく話を聞かせて頂きました。

 

「筋萎縮性側索硬化症」とは

・10万人に1人が発症する筋肉が徐々に衰えていく難病で、進行性であるために症状が軽くなることはない

 

・最もかかりやすい年代は60代〜70代で、比較的、男性に多い

 

・現段階では治療法はなく、進行を遅らせるための薬(リルテック)を処方するのみ

 

・初期症状が舌や喉の違和感から始まる場合、手足の違和感から始まる人よりも進行が早い

 

・少しでも長く生きる為には、気管切開をして人工呼吸器をつける事も検討していかなくてはいけない

 

・この病気を発症してから、亡くなるまではだいたい2年〜5年。まれに10年くらい生きる方もいる

 

 

この病気にたどり着くまでに既に発症してから2年が経っており、医師から

 

「人工呼吸器をつけない場合は、あと1年半〜2年とみてください。人工呼吸器をつける場合、本人と家族でよく話し合って、呼吸筋が弱まる前の段階で、気管切開を」

 

と祖母は余命宣告を受ける事に。

 

夢であって欲しいと心から思いました。

 

「筋萎縮性側索硬化症」の原因は不明。ただ気になる事が…

この病気は原因が不明といわれており、私もいろいろな本を読みましたが、原因も特別な治療法も見つけだせませんでした。

 

ただ、私には祖母の生活習慣の中で気になる事があり、それも少なからず原因につながっていたのではないか?と思う事があります。

 

「白砂糖の多量摂取」です。

 

小学生の頃、母よりも祖母とご飯を食べる事が多かったのですが、祖母が食べる様子をそばで見ながら、

「何にでも砂糖をたっぷりかけている」

と子供ながらに思っていた記憶があります。

 

例えば、おやつに出してくれたイチゴに山盛りの白砂糖がのっていて、白砂糖をかきわけながら食べたり、畑で採れたトマトを切って出してくれた時も、トマトが見えないくらい砂糖がかかっていたり。

 

驚いたのは、普段お酒を飲まない祖母が来客に付き合う為に無理してお酒を飲む事がたまにあったのですが、ビールに大量の砂糖を入れてました。

 

それから寝る前に、湯飲み茶わんにお湯を入れて梅干しを潰して飲むという習慣があったのですが、それにも砂糖。

 

祖母が亡くなって、皆で思い出話に花が咲いた時も「おばあちゃんの茶碗蒸し、めっちゃ甘くて美味しかったよね」と話が出たほど。

 

とにかく何にでも白砂糖で、かける時もパラパラと少しかけるのではなく、ラーメンを食べるときに使う、れんげでバサッバサッとかけていました。

 

「筋萎縮性側索硬化症」は、体の筋肉がどんどん痩せて徐々に力が入らなくなっていく病気で、筋肉そのものの病気ではなく、体を動かす為の命令が脳から伝わらなくなる病気。

 

祖母が難病になってから、いろいろな本を読む中で、白砂糖の過剰摂取は脳の細胞や神経系をダメにするという事が書かれた本も読みました。

 

一概に、白砂糖には害があるとはいえないにしても、やはりどんなものでも過剰摂取は良くないですよね…。

 

祖母は畑仕事や、私を含めた孫たち(8人)のお世話をしてきて、いつもバドミントンや卓球、キャッチボール、鬼ごっこなど、全力で遊んでくれて、来客の時以外、座っている姿をあまり見た事がありませんでした。

 

その為、筋肉は年齢のわりにはしっかりついていて、この難病を発症した際も、話せなくてもしっかりとした字で筆談していたり、医師から一般的にはそろそろ歩けなくなるだろうと言われてからも、ゆっくりではありますが、しばらくは歩けていました。

 

リハビリをして筋肉を動かしたり鍛えたりしても、筋力の衰えが止まる病気ではないと言われていますが、祖母を見て私はリハビリは無意味ではないと思っています。

 

ゆっくり足を伸ばしたり曲げたり、手を貸してあげながらリハビリをする事で、数分もしくは数時間でも筋肉の衰えを止める事ができているのではないかと思っています。

「筋萎縮性側索硬化症」は遺伝するのか?

祖母が医師から病名を告げられた時、真っ先に医師に聞いたのは「遺伝するのか」という事。

 

自分はともかく、子供や孫たちに遺伝するのだけは避けたいと。

 

難病だと告げられ、余命宣告も受けて、それでも自分の事より周りの事を心配した祖母は、それだけが気がかりですと医師に伝えました。

 

私の母は祖母が難病である事、真っ先に子供たちや孫たちを心配した祖母の優しさに、その場で泣いていました。

 

 

「約5〜10%の確率で家族遺伝する事はあるようですが、遺伝性は低いと考えられている病気です。」

 

先生がそう話すと、祖母はちょっとホッとした様子でした。

 

 

確かに、辿っていっても誰1人この難病を患っている人はおらず、祖母の両親に関してはどちらも長生きで、祖母の母親(私の曽祖母にあたる)は、102歳(2018年まで)生きてくれました。

 

祖母もこの難病を患わなければ、長生きした人だったのかもしれませんが、曽祖母と逆さ別れの形になってしまいました。

 

自宅介護をしていく事の難しさ

難病なのだから、入院して病院で集中的な治療を…というわけにはいかず、確立した治療法がないだけに、自宅介護をしていかなければなりませんでした。

 

まだゆっくりでも歩けていた頃は、祖母もみんなに迷惑かけたくないからと、自力でやれる事はやる!と言い、つきっきりでの介護は望まなかったのですが、確実に病気は進行し、気管切開による呼吸器をつけるかどうかの話し合いも必要になりました。

 

私達は、1日でも長く生きられるなら呼吸器をつけて欲しいと望み、何度か話し合ったのですが、祖母が選んだのは「呼吸器をつけない」。

 

祖母の体の異変は筋萎縮性側索硬化症によるものだろうとわかったのが体の異変から2年が経った68歳の時。

 

病名を告げられてから、徐々に歩くどころか立ち上がる事もできなくなったのはさらに2年後の70歳の時。

 

それでも握力は強く、支えがあれば体を起こしていられる状態で、字は読みにくくはなってしまったものの、筆談もできました。

 

この時点で、医師から余命宣告された1年半から2年をクリアしており、医師も「握力もまだまだあるね〜。すごい!」と驚いていました。

 

ただ、病院で検査を受けるにも人の手を借りて車椅子に乗らなくてはいけない状態で、柔らかくすれば飲み込めていたご飯も、唾液も自力では飲み込めなくなっていました。

 

そうなると、唾液や痰を吸引する人手が必要、トイレをするにも誰かの手が必要となり、いよいよ本格的に自宅介護が必要になりました。

 

この時、叔父の家は特にお金に余裕がなく、高校生1人と中学生1人と小学生2人、計4人の子供がいた為、誰かが仕事を辞めて収入を無くしてつきっきりで介護をする事が難しい状況でした。

 

私の母も、この時に父が胃ガンを患っていた為に経済的な余裕もなく、仕事もしていたので介護は難しい状況。

 

母の妹も、自営業の為につきっきりで介護をするのは難しい状況で、誰1人として祖母につきっきりになれる人がいませんでした。

 

かといって、毎日ヘルパーさんを頼めるくらい、お金に余裕もなく…。

 

私も祖母にずっと付き添っていたい気持ちはあっても、自分の生活があった為、毎日は付き添えませんでした。

 

結局は皆で予定を調整し合って、「この日の何時から何時までは誰が付きそう」と決めて、どうしても都合がつかないところをヘルパーさんにお願いする事にしました。

 

祖母が満足のいくものではなかったかもしれませんが、こうして亡くなるまでの約2年間、協力し合って介護をしました。

 

この自宅介護で何が辛かったかというと、日に日に衰えていく祖母の姿を見る事と、どんどんコミュニケーションが取れなくなっていく事です。

 

ゆっくりでも歩けていたのが歩けなくなった。

自力で体を起こせていたのが起こせなくなった。

柔らかいご飯を食べられていたのに、流動食になった。

筆談できていたのに字を書けなくなった。

あいうえお表を使って会話をしていたのに、表を指し示す力すらなくなった。

眠っている事が多くなった。

 

 

そして、普段は優しかった祖母も、自分の思いが伝わらずに、時々イラだった表情を見せるようになった事にショックを受けたりもしました。

 

でも、祖母のもどかしい気持ちもわかるからこそ余計に悲しくなったり。

 

何より、祖母が大好きだった「食べる事」「歌う事」「人と話す事」「体を動かす事」の全てが奪われてしまった事が辛くて、祖母の見えない所でいつも泣きました。

 

祖母のもとへ行った時に祖母が寝ていると、大変そうな姿を見なくて済むと、少しホッとしている自分がいて、呼吸しているかどうかを確認して帰ったり。

 

祖母を見ていて辛くなった時は、早めに祖母と別れて車の中で大泣きしました。

 

私はこの病気とも祖母とも、向き合おうと思っているだけで、実際は怖くて逃げていたんです。

脳神経の病でありながら意識や感覚は問題がない

「筋萎縮性側索硬化症」は、手足を動かす為の命令が脳から伝わらないから起こるとか、神経が老化して起こるとか、思い切り脳に関係しているにも関わらず、

意識だとか体の感覚だとか、視力や聴力は問題がないんです。

 

私はこれが本当に恐ろしいところだと思いました。

 

 

伝えたい意思があっても、やりたい事があっても、伝えられない。できない。

 

食べたいものがあっても、伝えられない。食べられない。

 

痛い痒いがあっても、伝えられない。自分で対処ができない。

 

こんな辛い事ってないんじゃないかと思いました。

 

食べる事が大好きだった祖母が、ご飯を食べられなくなり、食事は病院から処方してもらった栄養補助飲料「エンシュア・リキッド」という、缶に入った飲み物のみ。

 

祖母の気持ちを知ろうと1本飲んでみたのですが、不味くもないけれど美味しくもない…といった感じでした。

 

食べる事が大好きだった人にとっての食事が、この栄養補助飲料のみというのは、とても可哀想で、食事に限らずこの病気による不自由だらけの生活は、私だったら耐えられる自信がないと、いつも思っていました。

 

ただ、意識・視力・聴力に問題がないのであれば、楽しい話を聞かせて笑わせてあげたいと思い、普段の面白い出来事を祖母に話すネタとして書き留め、少し話を面白い方に盛って祖母を笑わせたりしました。

 

せめて私に出来ること。

 

ほんの数分でも、この病気の事を考えない時間ができればいいなと思い、私がしていた事です。

 

障がい者手帳の発行で負担費用はだいぶ楽になったけれど…

筋萎縮性側索硬化症だとわかる前、いろいろな検査をしたり、通院する事もあったのですが、発症してすぐは祖母が70歳未満だった事もあり、負担費用が1回で数万円かかる事もありました。

 

その為、祖母は家族に負担をかけたくないと考えて、あまり病院に行きたがりませんでした。

 

そこから約2年をかけて、筋萎縮性側索硬化症と病名がわかったものの、歩けなくなる事を想定して車椅子を用意したり、介護用ベッドを用意したり、これから投与し続ける薬の費用だったり、いろいろとお金がかかる事が予想されました。

 

しかし、筋萎縮性側索硬化症は国が指定する特定疾患の1つだった為、特定疾患医療受給者証を申請することによって、診察や検査、進行を遅らせるための薬を買うお金の一部が負担される事がわかりました。

 

そして、さらに身体障がい者手帳を申請する事で税金が控除されたり、福祉サービスに関する費用も一部、負担してもらえると。

 

介護をしていく側としては、負担して頂ける事は長い目で見ても本当にありがたい事だったのですが、身体障がい者手帳を発行するという事を、今まで元気だった祖母に伝えるのは心苦しいものがありました。

 

自分の祖母を褒めるのも厚かましいのですが、祖母は昔からとても美人で若くて優しくて、周りからも「おばあちゃん綺麗だよねー」とか「あんな優しいおばあちゃんがいていいな」とよく言われ、私にとって自慢のおばあちゃんでした。

 

病気を患ってからも、私にとっては変わらず自慢のおばあちゃんだったのですが、祖母にとっては変わっていく容姿をどこか受け止めきれないようで、あまり鏡を見たがらず…。

 

 

そんな中で、身体障がい者手帳を申請する為の写真を撮ったりするのも心苦しく、申請をするにあたってはいろいろと葛藤がありました。

 

申請は主に私の母が行ったのですが、手帳が発行されるまでに2ヶ月くらいかかり、その間は税金や福祉費用も当たり前にかかり…。

 

手帳が交付された時も、まだかろうじて体を起こしていられる状態だったので、総合等級が3級で、2級から受けられる医療費の助成は受けられず。

 

それでも想像していたよりは安く、ベッドや車椅子のレンタルができました。

 

 

手帳の更新は1年ごとだったのですが、更新する時には既に祖母は起きていられない状態で、翌年には2級になりました。

 

2級になると、まるっきり費用負担するものがなくなったり、待遇が良くなったものの、やはり進行性の病気なんだと現実を突きつけられた気がしました。

 

いよいよ自宅介護だけでは厳しくなった時

皆で協力し合って、それぞれが仕事をしながらでも介護をしていけると思っていたのですが、そんなに甘くありませんでした。

 

自宅介護を始めて2年が経とうとした時、祖母はもう寝たきりで、目しか動かせない状態になりました。

 

常に呼吸器官をふさがないように、機械で痰をとってあげたり、血流を良くする為に足のマッサージをしてあげたり、祖母が何かを目で訴えた時に対応してあげる事を考えると、昼夜問わず、付き添える環境が必要でした。

 

風邪を引かせてしまっては、命に関わる事になると思い、常に布団がかかっているかとか、祖母の手足を触って体温を確認したり。

 

ヘルパーさんも週に2回ほど来てくださっていたのですが、いろいろな負担を考えると、そろそろ自宅介護は厳しいのでは?と提案されました。

 

実際、ヘルパーさんも大変だったのかもしれません。

 

かといって、難病で寝たきりの祖母を受け入れてくれる病院もなく、それ以前に自分たちで看ると決めたのに、大変になったから誰かにお任せする、というのも祖母に申し訳ないと思いました。

 

このヘルパーさんからの提案と、皆で集まっての話し合いは祖母の前で行われたのですが、祖母は無表情のまま、目線を外に向けました。

 

この時の祖母の気持ちはわかりませんが、祖母はどんな形でも自宅が良かったと思っていたのかもしれません。

 

そしてどこか見離されたような気持ちになったのかもしれません。

 

 

周りからのアドバイスや、叔父・祖父・私の母・叔母の話し合いの結果、祖母を受け入れてくれる病院を探す事になり…。

 

私はもう少し頑張って自宅で介護しようよ!と言いたかったのですが、自分がつきっきりでいてあげられる訳でもなく、祖母と同居している叔父家族のように睡眠時間を削って介護しているわけでもなかったので、無責任な事は言えず。

 

受け入れ先が見つかるまでの間、幸運にも叔父の勤め先の社長さんが、以前祖母にいろいろと助けられていたそうで、この祖母の現状を知って力になりたいと、叔父に介護休暇のようなものをくださいました。

 

受け入れ先が見つかるまでに3ヶ月かかったのですが、その間は休暇をもらった叔父をメインに、また少し自宅介護できる期間が増え、少しホッとしました。

 

自宅介護を離れて病院で息を引き取るまでの事

寝たきりの祖母の痰を、呼吸器官に入ってしまわないように、こまめに取ってあげる。

 

痰をつまらせて窒息してしまわないようにするため、この作業は責任重大でした。

 

最初のうちはできていても、だんだん吸引の回数が増えたり、痰が奥にあって素人の手では吸引しきれなくなってきて…。

 

これらの事から、病院の力をお借りする事になったのですが、やっと見つかった受け入れ先の病院で言われたのは、受け入れ期間は3ヶ月までが限度だと。

 

3ヶ月以上はお預かりできないので、また自宅介護をするか他の病院に移るかをしてもらわなくてはならないと言われました。

 

その病院で3ヶ月お世話になり、また新たな受け入れ先が見つかるまでの1ヶ月間は、自宅介護だったのですが、祖母は久しぶりの自宅が嬉しそうでした。

 

また新たな受け入れ先が見つかったら、祖母は自宅を離れる。

 

なんだか、たらい回しにしているようですごく申し訳なくて、皆で「おばあちゃんの命のため」と決めた事が果たして本当におばあちゃんのためだったのか。

 

おばあちゃんは自宅にいれば皆に迷惑をかけてしまう、でも病院で過ごすのは嫌だ…口に出して言う事も表現する事もできず、いろいろな葛藤があったと思います。

 

結局、「本当のおばあちゃんのため」とはなんだったのか?

 

今でもそれはわかりません。

 

病院で24時間体制で痰がつまるのを防いでもらえるから安心だ!という私達の自己満足だったかもしれません。

 

 

新たな受け入れ先が、ちょっと離れた田舎の方で約1ヶ月後に見つかったのですが、そこは難病の人や、手の施しようがない方々を最期までお世話してくれる病院でした。

 

先生は、「呼吸器つけないでここまで頑張ってきたんですね。凄い事です。」と、発症してから呼吸器をつけずに6年過ごした祖母を褒めてくださいました。

 

新しい受け入れ先の病院では、皆さんが温かくて、こまめに見回りやケアをしてくださって、私達家族にも「今日おばあちゃん、すごく顔色いいよ」とか、「おばあちゃん楽しみに待ってたよ」と、優しい言葉をかけてくださいました。

 

ただ、こちらの病院でお世話になる頃には目だけが動かせる状態で、だんだん呼吸するのも酷そうな状態だったので、入院してから約2ヶ月後には「覚悟する時」がきました。

 

肺に水が溜まって高熱が続き、呼吸をするのも大変そうで、酸素マスクをしながら思い切り気道確保の体勢でベッドに寝ていました。

 

こうなると、お別れまであと数日だろうという事を告げられ、家族や親戚が病院に集まりました。

 

 

目をグッと閉じて口を大きく開けて、体がのけぞったようになっている祖母を私は見ている事ができず、病室の外で泣きました。

 

祖母は頭が良くてカンも良い人だったので、自分のベッドの周りに家族や親戚が集まっている事がどういう事なのか、苦しみながらもきっと理解しているだろうなと思うと、余計に可哀想で、涙が止まりませんでした。

 

病室の外で泣き続ける私に、叔父が

「もういつどうなってもおかしくない状態だから、会ってやってくれ。」

と声をかけに来ました。

 

今、祖母に会ったら私はショックで気絶してしまうのではないかと思ったのですが、涙を拭いて呼吸を整えて、祖母の隣に行きました。

 

不思議なもので、隣で苦しそうな祖母を見たら涙は一切出ずに、無言で祖母の頭を何度も撫でていました。

 

親戚達は祖母に「頑張ってよ!」と声をかけていましたが、私はこれ以上、祖母に頑張れなんて言えず。

 

何も言わずに頭を撫でていました。

 

小さい頃、祖母にたくさん頭を撫でてもらって、こんな形で自分が祖母の頭を撫でてあげるとは思いもしませんでしたが、これまでの感謝の全てを込めて。

 

しばらく祖母の頭を撫でて、いろいろな事を思い出しているうちに私は貧血を起こし、夫と母に抱えられながら病室を出ました。

 

 

ここから5日後に祖母は息を引き取りました。

 

看護師さんが「ここまで頑張りすぎるくらい頑張りましたよ。立派なおばあちゃんだね。」と言ってくださり、亡くなった祖母にとても綺麗にメイクをしてくださって、送り出してくれました。

 

近い将来、「筋萎縮性側索硬化症」は治せるかもしれない

筋萎縮性側索硬化症は、発症してから2〜4年程で亡くなる方が多いと言われている中で、祖母は呼吸器をつけずに6年生きてくれました。

 

最近ではテレビで取り上げられる機会も増え、だんだんと認知されてきましたが、田舎だからなのか私の住む地域では、まだまだ「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」という難病が認識されていません。

 

それ故に、筋肉の衰えが「歳のせい」になったり、「精神的なもの」扱いになり、祖母の場合は病気が発見されるまでに約2年かかりました。

 

祖母だけではなく、筋萎縮性側索硬化症はやはり初期症状に気が付きづらいようで、発見が遅れる事も珍しくないのだそう。

 

ただ、現時点では完治は見込めないものの、早く治療を始めた方が治療効果も発揮されやすいということが明らかだそうで、もし、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の初期症状にある

 

・手足があがらない

・筋肉のつっぱりや痛みがある

・食べ物が飲み込みにくい

・言葉が上手く発せない

 

などの症状がある場合は、早めに神経内科を受診してください。

 

 

祖母の症状がどんどん悪化してきた頃、「筋萎縮性側索硬化症」とわかる前にお世話になった大きな病院で、筋萎縮性側索硬化症の治療法の開発に取り組んでいるという事をニュースで知りました。

 

薬が世に出回るまでに、その薬の安全性や有効性を国に認めてもらうため、人を対象とした臨床試験が行われますが、その治験でALS初期段階の方に関して、良い結果が出たそうです。

 

さらに対象人数を増やし、再び臨床試験が行われるようで、それが完了するのが2019年の夏頃だとか。

 

他県にも同じように治療法や治療薬の開発に取り組んでいるチームがあり、先が見えなかったこの難病も、難病ではなくなる時がくるかもしれないと期待しています。

 

祖母が亡くなってしまうまでに、悲しくも病気を遅らせる薬が精一杯で、治療薬はありませんでしたが、筋萎縮側索硬化症を患っている方の未来が、今後は明るいものである事を願っています。

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