ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病を患った60代祖母の初期症状

人と話す事・歌うこと・食べる事・体を動かすことが大好きだった祖母が2015年12月に72歳で亡くなりました。

 

原因は、10万人に1〜3人が発症すると言われている難病「筋萎縮性側索硬化症きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)」を患っていた為です。

※「筋萎縮性側索硬化症」は英語名「amyotrophic lateral sclerosis(アミトロフィック ラテラール スクレローシス」の頭文字をとり、ALSとも呼ばれています。

 

この難病によって、祖母は体の自由を奪われて大好きだった「人と話す事」「歌うこと」「食べる事」「体を動かすこと」、全てのことができなくなったまま最後を迎えました。

 

それでも、呼吸器をつけなければ発症から約2〜4年と言われているところを、祖母は呼吸器を付けずに(祖母が希望しなかった)発症から6年間、精一杯、全力で生きてくれました。

 

祖母が発症からALSだとわかるまでに大きな病院でも約2年かかり、早期発見できていたなら完治できないまでももっと長く一緒にいられたのではないかと、今でも悲しくなる事があります。

 

難病から奇跡の回復など、励ましの内容ではない事が大変、心苦しいのですが近年、この難病を患う人が増加傾向にあるという事を知り、私もこの難病を身近で見てきた者として祖母がALSとわかるまでの事や、亡くなるまでの事をお伝えしようと思いました。

 

どなたかのお役に立つことができたら嬉しいです。

ALS(筋萎縮性側索硬化症)とはどんな病気なのか

指定難病の1つであり、脳から脊髄、脊髄から末梢神経を通って筋肉を動かす命令を出している運動神経に障害を受ける進行性の神経疾患です。

 

脳から運動神経への指令が伝わらなくなることによって、体が動かなくなり筋肉が痩せていくものの、一方では眼球の筋肉・感覚神経や自律神経には支障がなく、視力・聴力・内臓機能・排尿機能などは通常に保たれるという。

 

ALSに最もかかりやすい年齢層は60~70歳台で比較的男性に多く、発症から亡くなるまで約2〜4年と言われており、現段階では発症初期から薬や点滴を取り入れる事によって進行を遅らせる事はできても、完治させるための治療法はわかっていないそうです。

 

私は、この感覚神経や自律神経には支障がないままに体が動かなくなり、進行を遅らせる事はできても最終的には呼吸をする事が難しくなるというところに、この病気の残酷さと怖さと悲しさを感じました。

60代祖母のALS(筋萎縮性側索硬化症)初期症状

普段、元気すぎるくらいの祖母の体に異変が起き始めたのは、祖母が66歳の時で

・食べ物が飲み込みにくい
・つばが飲み込めない
・声が出しにくい
・言葉を上手く発せない

そんな症状から始まりました。

 

それでもまだ、よく噛んで食べれば飲み込めたし声も聞き取りにくいわけではなかったので、周りは「老化現象の一種だろう」と軽く考えていました。

 

しかし、祖母が異変を訴えてから数ヶ月後、声を出す事がひどそうで声も小さくなり、ご飯の事を「おはん」と発したり、きゅうりを「ううい」と発したり、言葉がちょっとずつ聞き取りにくくなってきました。

 

祖母と同居をしていた叔父家族は、何度も祖母の言葉を聞き返していて、時には聞き流してしまう事もあったそうで、次第に祖母も「話しても伝わらない」と思い、口数が少なくなりました。

 

祖母と一緒に住んでいる叔父家族を差し置いて、離れて住む孫の私が行動するのもおこがましいとは思ったのですが、元気な祖母を見てきたからこそこの状態はただ事ではないと思い病院に連れて行く事にしました。

 

「喉」に関する症状だから耳鼻咽喉科だろうと行ってみたものの異常はなく、内科はどうだろう?と思い行ってみたものの異常なし。

 

異常がないわけがない!と思い、他の耳鼻咽喉科と内科もあたってみたのですが見解は同じでした。

 

さらにここから数ヶ月が過ぎた頃、立ち姿も歩き姿も普段通りなのに祖母がよく転ぶようになり

・常に右足につっぱるような違和感がある
・歩いている時に、右足の力がふと抜けてしまう

と言いました。

 

迷惑がかかると思ってなのか、祖母は「様子を見る」と病院には行きたがらなかったので、足のマッサージをしてあげたり、暖かい靴下や膝サポーターを履かせたりしたのですが、転ぶ頻度が次第に増えて祖母は車を運転する事も外出する事もしなくなりました。

 

この頃、右足の違和感と共にもうほとんど言葉が聞き取れなくなり、祖母は頷くだけだったり筆談をするようになりました。

 

さすがにこれで異常がないわけがないと思い、祖母には切り出しにくかったのですが脳神経外科に連れて行く事にしました。

 

脳神経外科ではMRI検査などが行われたのですが、やはり異常は見当たらず、担当の医師から言われた言葉は

おばあちゃん最近、ショックな事とかなかった?例えば飼い猫が亡くなったとか。

 

話せない祖母に代わって私が

私

飼い猫はいません。

ショックな事も思い当たる事がありません。

と答えると、さらに医師は

そうなるとね、おばあちゃんの意思で話せないんだと思うよ?話さないと言った方が正しいかな?

 

祖母は先生のこの言葉を聞いても、いつもどおりの優しい顔をしていましたが、私はこの言葉に悲しくなり、ショックを受けました。

 

そんな時、以前お世話になった内科の先生から

異常がなかったとはいえ、やはり気になる症状なので、一度、大きな病院で診てもらった方がいいかもしれないね。

紹介状を書きますから、もう一度来て頂けますか?

と連絡を頂き、紹介状をもらってすぐに仙台にある大きな病院に検査入院をする事になり、希望の光が見えた気がしました。

 

そして、入院先の担当の先生にお会いし

絶対に病名を突き止めて、治していきましょうね!

頑張りましょう!

と頼もしい言葉を頂き嬉しくなりました。

 

ところが1週間入院し、脊髄検査などあらゆる検査をしても異常が見当たらず、正しい病名もわからないという結果に。

 

ただ、脳や血液などに異常が見られずに、徐々に体に異変が起きているという点から考えると恐らくALS(筋萎縮性側索硬化症)だろうと。

 

この病気の場合、完治するという事がなく進行を遅らせる薬を処方する事しかできないので、どこの病院に行っても対処法は同じだからあとは近くの病院と、今後の事についてご相談くださいと。

 

差し伸べられた手を、パッと振り払われたような、突き放された感じがしました。

 

食べ物や唾液を飲み込みにくい、声が出しづらいという初期症状からこのALSとわかるまでに、既に約2年が経過。

 

結局、紹介状を書いてくださった病院でお世話になる事になり、ALS(筋萎縮性側索硬化症)についても、その病院で詳しく話を聞かせてもらったのですが

人工呼吸器をつけない場合は、あと1年半〜2年とみてください。

人工呼吸器をつける場合、本人と家族でよく話し合って、呼吸筋が弱まる前の段階で、気管切開を。

と祖母は余命宣告を受ける事に…。

 

夢であって欲しいと心から思いました。

 

「脳や血液に異常が見られない」「髄液や臓器にも異常がない」というところから、この病気の初期症状を見分けるのは医師でも難しいのだと痛感しました。

ALS(筋萎縮性側索硬化症)は遺伝するのか?

祖母が医師から指定難病の1つであるALS(筋萎縮性側索硬化症)と告げられた時、真っ先に医師に聞いたのは「この病気は遺伝するのか」という事。

 

自分はともかく、子供や孫たちに遺伝するのだけは避けたいと。

 

難病だと告げられ、余命宣告も受けて、それでも自分の事より周りの事を心配した祖母は「それだけが気がかりです」と医師に伝えました。

 

約5〜10%の確率で家族遺伝する事はあるようですが、遺伝性は低いと考えられている病気です。

先生がそう話すと祖母はちょっとホッとした様子でしたが、この時に付き添っていた私と母は祖母が難病である事、真っ先に子供や孫の心配をした祖母の優しさに泣き崩れました。

 

1番、辛く悲しかったのは祖母なのに。

 

家系を辿っていっても誰1人この難病を患っている人はおらず、ましてや祖母の両親に関してはどちらも長生きで、祖母の母親(私の曽祖母にあたる)は、102歳(2018年まで)生きてくれました。

 

祖母もこの難病を患わなければ長生きした人だったのかもしれませんが、難病を患った事により、結果として曽祖母と逆さ別れの形になってしまいました。

ALSは難病がゆえに原因は不明だが…

祖母がALSだとわかってから、この病気に関しての本をいろいろ読みましたが「神経の老化」「遺伝子の異常」など、大まかな事はわかっていても原因は不明といわれており、特別な治療法も見つけだせませんでした。

 

ただ、私には祖母の生活習慣の中で気になる事があり、それが少なからず原因につながっていたのではないか?と振り返って思う事があります。

 

「白砂糖の多量摂取」です。

 

この難病を知ろうといろいろな本を読む中で、白砂糖の過剰摂取は脳の細胞や神経系をダメにするという事が書かれた本も読みました。

 

父が早くに亡くなり母子家庭だった私は幼い頃、母よりも祖母とご飯を食べる事が多かったのですが、祖母が食べる様子をそばで見ながら「いつも砂糖をたっぷりかけている」と子供ながらに思っていた記憶があります。

 

例えばイチゴやトマトに山盛りの白砂糖がのっていたり、普段お酒を飲まない祖母が来客に付き合う為に無理してお酒を飲む事がたまにあったのですが、ビールに大量の砂糖を入れて飲んでいました。

 

寝る前に、湯飲み茶わんにお湯を入れて梅干しを潰して飲むという習慣があったのですが、それにも白砂糖。

 

祖母が亡くなって、皆で思い出話に花が咲いた時も「おばあちゃんの茶碗蒸し、すごく甘かったけど美味しかったよね」と話が出たほど。

 

とにかく何にでも白砂糖で、かける時もパラパラと少しかけるのではなくラーメンを食べるときに使う、れんげでバサッバサッとかけていました。

 

一概に白砂糖には害があり、ALSの原因につながるとはいえないにしても、身体の事を考えればなんでも過剰摂取は良くないですよね。

筋肉量が多いと手足の衰えは比較的ゆっくり進行…?

祖母は畑仕事や私を含めた孫たち(8人)のお世話をしてきて、いつもバドミントンや卓球、キャッチボール、鬼ごっこなど、全力で遊んでくれて、来客の時以外、座っている姿というのをあまり見た事がありませんでした。

 

その為、筋肉が年齢のわりにはしっかりついていて、この難病を発症した際も話せなくてもしっかりとした字で筆談していたり、医師から一般的にはそろそろ歩けなくなるだろうと言われてからも、ゆっくりではありますがしばらくは歩けていました。

 

握力に関しても医師から「そろそろ手に力が入らなくなってもおかしくないのに、まだこんなに握る力が残っているなんて驚きだね!」と言われるほどでした。

 

リハビリをして筋肉を動かしたり鍛えたりしても、筋力の衰えが止まる病気ではないと言われていますが、祖母を見て私はリハビリは無意味ではないのではないかと思っています。

 

ゆっくり足を伸ばしたり曲げたり、手を貸してあげながらリハビリをする事で、数時間もしくは数分でも筋肉の衰えを遅らせる事ができるのではないかと希望を持っています。

呼吸器をつけるかどうか今後について話し合いをした日

この病気は確立した治療法がないだけに、入院して集中的な治療を…というわけにはいかず、自宅介護をしていかなければなりませんでした。

 

発症からALSとわかるまでに約2年が経っていたものの、まだある程度の身の回りの事はできて、ゆっくりでも歩く事ができていたので祖母も「みんなに迷惑をかけたくないから自力でやれる事はやる!」とつきっきり介護は望まず。

 

それでもALSという病気は進行速度は人によって違えど、確実に進行していく病気なので気管切開による呼吸器をつけるかどうかの話し合いは避けられませんでした。

 

私達は「祖母と1日でも長く一緒にいたい少しでも長く生きて欲しいから呼吸器をつけて欲しい」と望み、何度も話し合ったのですが、祖母が選んだのは「呼吸器をつけない」。

 

家族に迷惑をかけたくない、そして自分が動けなくなっていく事を頭で理解しながら長くこの病気と付き合っていたくないと。

 

私達がどれだけ説得をしても、祖母は断固として呼吸器はつけたくないと言い、本人の意思を尊重するという事で残された時間、呼吸器はつけないで生きるという選択をしました。

 

小さな頃から母親代わりをしてくれた大好きな祖母と、祖母の命にタイムリミットを感じながらこんな話をする事に私は耐えられず、どれだけ泣いたかわかりません。

元気だった祖母に障がい者手帳が発行された日

祖母がALS(筋萎縮性側索硬化症)だとわかる前、いろいろな検査をしたり通院する事もあったのですが、発症してすぐは祖母が70歳未満だった事もあり、負担費用が1回で数万円かかる事もありました。

 

そこから約2年が経ってからALSだと病名がわかったものの、歩けなくなる事を想定して車椅子を用意したり、介護用ベッドを用意したり、これから投与し続ける薬の費用だったり、いろいろとお金がかかる事が予想されました。

 

しかし、ALS(筋萎縮性側索硬化症)は国が指定する特定疾患の1つだった為、特定疾患医療受給者証を申請することによって、診察や検査、進行を遅らせるための薬を買うお金の一部が負担される事がわかりました。

 

そして、さらに身体障がい者手帳を申請する事で税金が控除されたり福祉サービスに関する費用も一部、負担してもらえると。

 

これから介護をしていく側としては、負担して頂ける事は長い目で見ても本当にありがたい事だったのですが、身体障がい者手帳を発行するという事を、今まで元気だった祖母に伝えるのは心苦しいものがありました。

 

自分の祖母を褒めるのも厚かましいのですが、祖母は昔からとても美人で若くて優しくて、周りからも「おばあちゃん綺麗だよねー」とか「あんな優しいおばあちゃんがいていいな」とよく言われ、私にとって自慢のおばあちゃんでした。

 

病気を患ってからも私にとっては変わらず自慢のおばあちゃんだったのですが、祖母にとっては変わっていく容姿と身体をどこか受け止めきれないようで、あまり鏡を見たがらなくなり…。

 

そんな中で、身体障がい者手帳を申請する為の写真を撮ったりするのも心苦しく、申請をするにあたってはいろいろと葛藤がありました。

 

申請は主に私の母が行ったのですが、手帳が発行されるまでに2ヶ月程かかり、その間は税金や福祉費用もかかり、手帳が交付された時も、まだかろうじて体を起こしていられる状態だったので、総合等級が3級で、2級から受けられる医療費の助成は受けられず…。

 

それでも想像していたよりは安く、ベッドや車椅子のレンタルができました。

 

手帳の更新は1年ごとだったのですが、更新するたびに写真に映る祖母の姿が変わり、手帳発行のための総合等級が上がり…やはりALSは進行性の病気なのだと現実を突きつけられた気がしました。

想像以上に辛かった自宅介護

祖母の体の異変はALS(筋萎縮性側索硬化症)によるものだろうとわかったのが体の異変から2年が経った68歳の時。

 

病名を告げられてから徐々に歩くどころか立ち上がる事もできなくなり、寝たきりになったのはさらに3年後の71歳の時。

 

それでも握力は強く、支えがあれば体を起こしていられる状態で、字は読みにくくはなってしまったものの筆談もできて、あいうえお表を指差して言葉を伝える事もできました。

 

この時点で、医師から病名を告げられ余命宣告された1年半から2年をクリアしており、医師も驚いていたのですが、やはり緩やかながらも進行は止まらず、徐々に柔らかくすれば飲み込めていたご飯も唾液も、自力では飲み込めなくなってきました。

 

そうなると唾液や痰を吸引する人手が必要となり、トイレをするにも誰かの手が必要となり、いよいよ本格的に自宅介護が必要になりました。

 

ただこの時、祖母と一緒に暮らす叔父家族の家は高校生1人と中学生1人と小学生2人の計4人、お金がかかり盛りの子供達がいた為、誰かが仕事を辞めて収入を無くしてつきっきりで介護をする事が難しい状況でした。

 

娘にあたる私の母も、この時に父が胃ガンを患っていた為に治療費がかかり、経済的な余裕もなく仕事もしていたので介護は難しい状況。

 

母の妹も自営業の為につきっきりで介護をするのは難しい状況で、孫である私も祖母にずっと寄り添っていたい気持ちはあっても、やっと授かった赤ちゃんと自分の家族との生活があり、誰1人として祖母につきっきりになれる人がいませんでした。

 

かといって毎日ヘルパーさんを頼めるくらいお金に余裕もありませんでした。

 

結局は皆で予定を調整し合って「この日の何時から何時までは誰が付きそう」と決めて、どうしても都合がつかないところをヘルパーさんにお願いする事にしました。

 

祖母が満足のいくものではなかったかもしれませんが約2年間、皆で協力し合って時にはヘルパーさんの力をお借りしながら介護をしました。

 

この自宅介護で何が辛かったかというと、日に日に衰えていく祖母の姿を見る事と、どんどんコミュニケーションが取れなくなっていく事です。

 

ゆっくりでも歩く事ができていたのに歩けなくなった。
自力で体を起こせていたのが起こせなくなった。
柔らかいご飯を食べられていたのに、流動食になった。
筆談できていたのに字を書けなくなった。
あいうえお表を使って会話をしていたのに、表を指し示す力すらなくなった。
眠っている事が多くなった。

 

そして、普段は優しかった祖母も自分の思いが伝わらずに、時々イラだった表情を見せるようになった事にショックを受けたりもしました。

 

祖母のもどかしい気持ちがわかると共に、元気すぎるくらいの姿を見てきたからこそ、この現実を受け止めきれずに悲しくなり。

 

何より、祖母が大好きだった「食べる事」「歌う事」「人と話す事」「体を動かす事」の全てが奪われてしまった事が辛くて、祖母の見えない所でいつも泣いていました。

 

祖母のもとへ行った時に祖母が寝ていると、大変そうな姿を見なくて済むと少しホッとしている自分がいて、呼吸しているかどうかを確認して帰ったり。

 

私はこの病気とも祖母とも向き合おうと思っているだけで、実際は現実から目をそらしたくて怖くて逃げていたと思います。

 

ALSは手足を動かす為の命令が脳から伝わらないから起こるとか、神経が老化して起こるとか、思い切り脳に関係しているにも関わらず、意識だとか体の感覚だとか視力や聴力は問題がない。

私はこれがALSの本当に恐ろしいところだと思いました。

 

伝えたい意思があっても、やりたい事があっても伝えられない。できない。
食べたいものがあっても、伝えられない。食べられない。
痛い痒いがあっても、伝えられない。自分で対処ができない。

 

こんなにも辛い事ってないんじゃないかと思いました。

 

食べる事が大好きだった祖母が、ご飯を食べられなくなり、食事は病院から処方してもらった栄養補助飲料「エンシュア・リキッド」という、缶に入った飲み物。

祖母の気持ちを知ろうと1本飲んでみたのですが、不味くもないけれど美味しくもない…といった感じでした。

 

食べる事が大好きだった人にとっての食事が、この栄養補助飲料というのとても可哀想で、食事に限らずこの病気による不自由だらけの生活は、私だったら耐えられる自信がないといつも思っていました。

 

ただ、意識・視力・聴力に問題がないのであれば、楽しい話を聞かせて笑わせてあげたいと思い、普段の面白い出来事を祖母に話すネタとして書き留め、少し話を面白い方に盛って祖母を笑わせたり…。

 

せめて私に出来ること。

ほんの数分でも、この病気の事を考えない時間ができればいいなと思い、私がしていた事です。

自宅介護を離れて病院で息を引き取るまでの事

皆で協力し合って、それぞれが仕事をしながらでも介護をしていけると思っていたのですがそんなに甘くはありませんでした。

 

寝たきりの祖母が目しか動かせない状態になった時、常に呼吸器官をふさがないように機械で痰をとってあげたり、血流を良くする為に足のマッサージをしてあげたり、祖母が何かを目で訴えた時に対応してあげる事を考えると、昼夜問わず付き添える環境が必要でした。

 

風邪を引かせてしまっては命に関わる事になると思い、常に布団がかかっているかなど祖母の手足を触って体温を確認したり。

 

ヘルパーさんも週に2回ほど来てくださっていたのですが、いろいろな負担を考えるとそろそろ自宅介護は厳しいのでは?と提案されました。

 

実際、ヘルパーさんも大変だと感じていたのかもしれません。

 

かといって、難病で寝たきりの祖母を受け入れてくれる病院もなく、それ以前に自分たちで看ると決めたのに大変になったから誰かにお任せする、というのも祖母に申し訳ないと思いました。

 

このヘルパーさんからの提案と、皆で集まっての話し合いは祖母の前で行われたのですが祖母は無表情のまま、目線を外に向けていました。

 

この時の祖母の気持ちは今となってはわかりませんが、祖母はどんな形でも自宅が良かったと思っていたのかもしれません。

そしてどこか見離されたような気持ちになったのかもしれません。

 

周りからのアドバイスも受け、話し合いの結果、祖母を受け入れてくれる病院を探す事になったのですが、私はもう少し頑張って自宅で介護しようよ!と言いたくて仕方がありませんでした。

 

でも、自分がつきっきりでいてあげられる訳でもなく、祖母と同居している叔父家族のように睡眠時間を削って介護しているわけでもなかったので、無責任な事は言えませんでした。

 

祖母を受け入れてくれる先がすぐには見つからなかったのですが、幸運にも叔父の勤め先の社長さんが、以前祖母にいろいろと助けられたからと祖母の現状を知って、叔父に介護休暇をくださいました。

 

寝たきりの祖母が呼吸器官に痰をつまらせて窒息してしまわないように、こまめに取ってあげる、この作業は責任重大で、最初のうちはできていたのですが、だんだん吸引の回数が増えたり痰が奥にあって素人の手では吸引しきれなくなってきました。

 

これらの事から、病院の力をお借りする事になったのですが、やっと見つかった受け入れ先の病院で言われたのは受け入れ期間は3ヶ月間までが限度だと。

 

結局、その病院で3ヶ月お世話になった後、また新たな受け入れ先が見つかるまでの1ヶ月間は自宅介護だったのですが、祖母は久しぶりの自宅が嬉しそうでした。

 

また新たな受け入れ先が見つかったら、祖母は自宅を離れる。

 

なんだか、たらい回しにしているようですごく申し訳なくて、皆で「祖母のため」と決めた事が果たして本当に祖母のためだったのか。

 

祖母は自宅にいれば皆に迷惑をかけてしまう、でも病院で過ごすのは嫌だ…口に出して言う事も表現する事もできず、いろいろな葛藤があったと思います。

 

結局、「本当の祖母のため」とはなんだったのか?今でもそれはわかりません。

 

病院で24時間体制で痰がつまるのを防いでもらえるから安心だ!という私達の自己満足だったかもしれません。

 

新たな受け入れ先がちょっと離れた田舎の方で約1ヶ月後に見つかったのですが、そこは難病の人や、手の施しようがない方々を最期までお世話してくれる病院でした。

 

その病院の先生は

この病気で呼吸器つけないでここまで頑張ってきたんですね。凄い事です。

と発症してから呼吸器をつけずに6年過ごした祖母を褒めてくださいました。

 

新しい受け入れ先の病院では皆さんが温かくて、こまめに見回りやケアをしてくださって私達家族にも

今日おばあちゃん、すごく顔色いいよ!

おばあちゃん楽しみに待ってたよ!

といつも優しい言葉をかけてくれました。

 

ただ、こちらの病院でお世話になる頃には目だけが動かせる状態で、だんだん呼吸するのも酷そうな状態だったので、入院してから約2ヶ月後には「覚悟する時」がきました。

 

肺に水が溜まって高熱が続き、呼吸をするのも大変そうで、祖母は酸素マスクをしながら思い切り気道確保の体勢でベッドに寝ていました。

 

こうなると、お別れまであと数日だろうという事を告げられ、家族や親戚が病院に集まりました。

 

目をグッと閉じて口を大きく開けて、体がのけぞったようになっている祖母を私は見ている事ができず病室の外で泣きました。

 

祖母は頭が良くてカンも良い人だったので、自分のベッドの周りに家族や親戚が集まっている事がどういう事なのか、苦しみながらもきっと理解しているだろうなと思うと、余計に可哀想で涙が止まりませんでした。

 

今、祖母に会ったら私はショックで気絶してしまうのではないかと思ったのですが、残された時間が少ない祖母に感謝を伝えたいと思い、涙を拭いて呼吸を整えて祖母の隣に行きました。

 

不思議なもので、隣で苦しそうな祖母を見たら涙は一切出ずに、無言で祖母の頭を何度も撫でていました。

 

親戚達は祖母に「頑張ってよ!」と声をかけていましたが、私は頑張りすぎるくらい頑張ってきた祖母にこれ以上、頑張れとは言えず無言で祖母の頭を撫でていました。

 

小さい頃、祖母にたくさん頭を撫でてもらって、こんな形で自分が祖母の頭を撫でてあげる日が来るとは思いもしませんでしたが、これまでの感謝の全てを込めて。

 

しばらく祖母の頭を撫でて、いろいろな事を思い出しているうちに私は貧血を起こしてしまい、夫と母に抱えられながら病室を出ました。

 

この5日後、祖母は息を引き取りました。

 

看護師さんが「ここまで頑張りすぎるくらい頑張りましたよ。立派なおばあちゃんだね。」と声をかけてくださり、亡くなった祖母にとても綺麗にメイクをしてくださって送り出してくれました。

近い将来、ALSは治せるかもしれない

筋萎縮性側索硬化症は、発症してから2〜4年程で亡くなる方が多いと言われている中で、祖母は呼吸器をつけずに6年生きてくれました。

 

最近ではテレビで取り上げられる機会も増え、ALSもだんだんと認知されてきましたが、田舎だからなのか私の住む地域では、まだまだ「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」という難病が認識されていません。

 

それ故に、筋肉の衰えが「歳のせい」になったり「精神的なもの」の扱いになり、祖母の場合は病気が発見されるまでに約2年かかりました。

 

祖母だけではなく筋萎縮性側索硬化症はやはり初期症状に気が付きづらいようで、発見が遅れる事も珍しくないのだそうです。

 

ただ、現時点では完治は見込めないものの、早く治療を始めた方が治療効果も発揮されやすいということが明らかだそうで、もしALS(筋萎縮性側索硬化症)の初期症状にある

・手足があがらない
・筋肉のつっぱりや痛みがある
・食べ物が飲み込みにくい
・言葉が上手く発せない

などの症状がある場合は、早めに神経内科を受診してください。

 

祖母がALS(筋萎縮性側索硬化症)とわかる前に検査入院でお世話になった仙台の大きな病院で、ALSの治療法の開発に取り組んでいるという事をニュースで知りました。

 

薬が世に出回るまでに、その薬の安全性や有効性を国に認めてもらうため、人を対象とした臨床試験が行われますが、その治験でALS初期段階の方に関して、良い結果が出たそうです。

 

さらに対象人数を増やし、再び臨床試験が行われるようでそれが完了するのが2019年の夏頃だとか。

 

他県にも同じように治療法や治療薬の開発に取り組んでいるチームがあり、先が見えなかったこの難病も、難病ではなくなる時がくるかもしれないと期待しています。

 

祖母が亡くなってしまうまでに悲しくも病気を遅らせる薬が精一杯で、治療薬はありませんでしたが、ALSを患っている方の未来が今後は明るいものである事を心から願っています。

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